技術ファイル|映像・写真・デザイン・情報【論文 編】

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映像メディアの誕生で、スポーツはどう変化したのか!

メディアスポーツとは、広義でマスメディアによって積極的に報道されるメジャースポーツ、スポーツがメディアのコンテンツとして消費されることでスポーツ自体がメディアとして機能するという概念を指す。これらに象徴されるように、近代スポーツはマスメディアとの密接な関係を保って発展してきた。スポーツの活動環境を大別すると参加(する)、観戦(みる)、支援(ささえる)という視点で考えることができる。ここでは21世紀の情報化社会を睨み、メディアとスポーツの関係について考察する。

初めに、参加(する)という活動は、世界中に存在する多くのスポーツの中から選択できる。しかし事実上はスポーツの種目ごとの情報量に大きな差異があるために、その選択肢は必然的に制限されている。これにはスポーツと密接な関係を持つマスメディアの存在が大きく影響しているからだ。スポーツがメディアのコンテンツとして消費されるということは、コンテンツとして成立しないスポーツは消費されず、その存続自体に大きな影響を与えてしまうようになる。メディアスポーツは市場原理主義の影響やメディアによる情報操作の懸念が常に付きまとうが、その公益性(経済波及効果、技術革新、国際平和の共有など)を考慮すると、一概に善悪を論ずることは難しい。

しかし、1990年代以降のインターネットの普及により、これらの傾向は次第に変わっていった。経験則ではあるが、2000年頃にインターネットのウェブサイトにて「petanque(ペタンク)」というスポーツの情報を発見した。自身にとっては未知のスポーツであった。そこで実際にウェブサイトを介してペタンクなるスポーツのワークショップに参加してみた。そこでの私はペタンクという共通の目的で集まったコミュニティの一人として、有意義な体験や交流を得ることができたのだ。ペタンクはフランスでは国民的人気を誇る球技だが、オリンピックの競技種目でもなく、日本国内では認知度が低い。しかし、これこそがメディアとスポーツの本質的な姿ではないだろうか。

次に、観戦(みる)という活動は、スタジアムや競技場での観戦(ライブスポーツ)とメディアを媒介させた視聴(メディアスポーツ)があるが、これらは対立概念として学術的な研究もされている。近年の有料衛星放送の多チャンネル化に伴い、ワールドカップやオリンピックなどの国際大会は高騰する放映権料が示唆するようにキラーコンテンツと呼ばれ、世界規模での情報アクセスビリティの確保が社会問題となっている。メディアスポーツの研究者、橋本純一は「メディアを通じた情報はメディアによって加工されたもの」と指摘している。現状では報道に対する受容者の判断やメディアリテラシーに委ねられている。しかし、メディアが常に配慮すべきことは、過剰な演出による現実との隔たりを生じさせないことである。なぜなら、これらは別の意図を誘発させる恐れがあり、事実が歪曲されて伝わりかねないからだ。

スポーツ総合研究所の広瀬一郎は「現実と疑似との差をはっきりさせ、現実の優位性を常に保つような価値構造を維持していくこと」と述べている。即ち、ライブより中継映像や録画映像に優位性を持たせる編集がなされては、スポーツそのものが価値を失ってしまうという意見だ。しかし、これは言うは易く行なうは難しの典型であり、様々な思惑が交差する難しい問題でもある。そもそも、こうした研究者達は映像メディア表現の専門家ではない。スポンサー、予算、制作における技術的な諸問題を意識していないため、本来はこうした事情も踏まえて議論すべきだし、一般視聴者はどのように考えているのか、ということも置き去りにできない。特にテレビ放送は国営民営を問わず、公共の電波を使用する公益性の高い媒体のため、スポーツにとって理想的な映像とは何か、絶えず追求する義務があることには賛成できる。勿論、これはスポーツ放送に限ったことではない。

最後に、支援(ささえる)という活動は、競技施設や用具の提供、チームや個人の支援などの環境面、競技会場で観衆として応援する精神面などが考えられる。メディアスポーツにおけるこれらの諸問題は、メディアスポーツが企業やメディアの経済活動でもあるために、経済や政治の影響を受けやすいことにある。サッカーJリーグの協賛企業撤退によるクラブの消滅、プロ野球球団のフランチャイズ移転や球団の合併、ベルリンオリンピックのナチズムによる政治利用、冷戦の影響によるモスクワオリンピックのボイコット問題、北海道夕張市の経営破綻問題でも多くのスポーツ施設の利用に影響がでている。

これらに通じることは、選手や利用者が意図しないにも関わらず実行されてしまったことである。2004年のプロ野球再編問題では、プロ野球選手会のストライキ敢行によって事態は結果的に収束したが、球団経営者側の最高権力者の一人、読売新聞社の渡邉氏の「たかが選手」発言は両者の隔たりを象徴していたのではないだろうか。近代スポーツは時間、空間、人員等の特定の環境を有するものが多く、その存続自体に大きく影響する支援(ささえる)という活動は、企業や団体に依存しすぎない、メディアに支配させないシステムを国民一人一人が考えなくてはならない時代なのだ。

以上に述べたように、メディアによってスポーツは時代と共に急成長し、メディアスポーツとしての諸問題を抱えるにも至った。マスメディアは黎明期のグラフジャーナルの時代から社会の自浄作用として機能したきた側面もあるが、ことメディアスポーツに関しては当事者であるために、国民と共に問題解決へと取り組むべきである。マスメディアは公共の福祉に適合するスポーツ環境とは何か、皆が討論できるような環境づくりに協力すべきである。

【参考文献】
公益社団法人 日本ペタンク・ブール協会 ホームページ
広瀬一郎 著『メディアスポーツ』読売新聞社1997
橋本純一 編『現代メディアスポーツ論』世界思想社2002

2012年02月某日

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